東京いずみ幼稚園同窓会
 
ふとした時に思い出しませんか?楽しかった幼稚園の記憶の中で一番思い出に欠かす事が出来ない幼稚園の先生。あんな先生いたな~。あの先生元気かな?どうしているかな?そんな懐かしい先生にインタビュー。

第一回 飯田文子(旧姓:加瀬) 先生

 

第一回目となる先生は飯田文子(旧姓:加瀬)先生。昭和60年からいずみ幼稚園に勤務、退職後ご結婚、4年前から課外教室『青い鳥』で年中・年長の講師として活躍中。

小さい頃から先生が大好きな子供でした。幼稚園の先生、小学校の先生のそばにいつもいる子で、多分その頃から“先生って良いな”という思いがあったのかもしれません。
小学校の時にピアノを習っていました。歌う事が大好きで、テストの時は張り切って歌っちゃうタイプでした。絵を描く事も好きでした。
高校の時公務員になろうと思ったのですが、当時に入っていた合唱部の2学年上の先輩が短大の保育科へ進学して、部へ何回か遊びに来て話を聞いているうちに、そこに行きたいなと思いが出てきて先輩と同じ短大の保育科へ進学する事に決めました。

 

学校が世田谷にあり、求人票が町田・川崎・横浜方面ばかりで、住んでいた葛飾区の求人がありませんでした。
先ほどの話の様に先生好きという事もあり、就職科の先生と仲良くさせて頂いていたのですが、食堂でご飯を食べている時にその先生が来てくれて、「加瀬さん!!亀有から来たよ!!」って教えてくれたのです。それでここが良い!ここに入りたい!と思い、決めました。こちら(佐野)の方面に来た事が無かったので、決めた後自転車で地図見ながら来ました。ご縁があったのかなと思います。

 

履歴書を持ってきた時に、園長先生(当時は副園長先生)が修理中の壊れたモップの柄を持っていました。その場で「わざわざ持って来てくれたの?」と対応して頂きました。その時園長先生は31歳でしたね。若かったです(笑)
「強い体と心を持とう 良く遊ぼう 良く考えよう」という教育理念を暗記して面接した時に言いました。ピアノのテストと作文を書きました。18名受けて、2名採用されました。採用されて、すごく嬉しかったです。就職科の先生も握手して喜んでくれました。とても心配して下さっていたので、その時の事は忘れられないですね。採用後の面接の時に、「ピアノはまあまあだったけど作文がねぇ。小学生が書く作文だな」と言われたのを覚えています。(笑)

 

最初は助手で採用して頂きました。その頃、助手だった先生は1年経つと年少さんの蒲公英組の担任になっていたので、私も担任になれると勝手に思い込んでいました。なので、担任を持つ前からノートに蒲公英組の名簿を作っていたら、何故か年長の担任になりました。(笑) でも1年間幼稚園の中の仕事がわかってからの担任だったので、本当に良かったと思います。
当時は2年保育が主流だったので、年中・長3クラス、年少1クラス。
最初はクラスがまとまらず、悩んだ時には隣のクラスに主任の杉田先生が相談に乗ってくれてアドバイスを頂きました。そうすると、だんだんとクラスがまとまってきて、無事に卒業させる事が出来ました。
今もそうだと思いますが、どのクラス、どの先生に当たっても同じ事が出来るように、3人でいつも話し合って足並みを揃えていました。良い子ども達ばかりで、辛い事が思い出せない位、本当に楽しかったです。家に持ち帰る仕事も苦じゃなかった。そして休まない、休みたくないと思っていました。
5年勤務した後、転職して靴下の会社で営業事務を2年4ヶ月したのですが、これは向いていないなと思ったのです。そして図々しくもまた幼稚園にお願いして呼んで頂き助手を2年間しました。やっぱりOLと違いますね。やれば返ってくるものがあるので、先生としてのやりがいを感じました。

 

12月のクリスマス発表会がすごかったですよね。お遊戯会と、MS発表会がくっついたような発表会です。
私が担任を持っていた時は、全クラス(7クラス)合同で、男の子ダンス、女の子のダンス、全員の劇をやって歌を歌って合奏をして。本当にできちゃったんです。途中で先生の出し物もありました。影絵とか。
今は行事にありませんが、段ボール製作がありました。段ボールを先生方皆で家具屋さんから運んできました。毎年テーマを決めて作って遊ぶんです。私は遊園地やお化け屋敷とか迷路をテーマにしましたね。お化け屋敷では、“先祖代々の墓”とか作ったり、周りを暗くしたりしました。文化祭みたいでしたよ。それから、個人的にはバザーが好きでした。売ったり、食べたり。行事が一つ一つ力が入っていて楽しくて、行事を通して季節感を味わう事が出来ました。

 

ある女の子が年長の時に何かで叱った後、「ジョリ、ジョリ」って変な音がするなぁ、と思ったら鋏で夏の麦わら帽子を切っていました。
また、ある女の子はふれあい動物園で動物が大嫌いなので、ずっとトイレで隠れていましたね。

 

眞利子先生から青い鳥講師のお話を頂いて、主人も賛成してくれてお引き受けしました。
私にとっては有難いお仕事で、月・木曜日の為に生きている様な気がします。
昔は俳句とフラッシュカードをやっていました。やっていなかった事はやはり難しいですが、かれこれ3年になります。もっと何とかしていきたいです。
担任持てたら楽しいだろうなと思いますが、体力的に青い鳥の講師で一杯一杯です。
大好きないずみ幼稚園で働いているのが何よりの幸せです。三度も雇って頂いているし。
園長先生に足を向けて寝られません(笑)

 

基本、子供は変わらない。目のキラキラ感とか、楽しい時はワ~となるし、怒られるとシュンとなるし。でも、甘えん坊さんが多いかな~と思います。頭は良くなっている気がします。教えれば伸びる力はついている。昔の子の方がもっと自然児だったというか。
変わっているのは周りだと思います。自分と重ねちゃうんですけど。熱心なお母様方も多いです。昔は役員のお母様とはよく会っていました。それ以外のお母様とは、年3回の面談と家庭訪問があり、お話していました。お母様方は「うちではどうしようもなくて」とおっしゃいますが、子供たちって幼稚園では頑張っちゃうと思うんですね。叱られたくないとか、お友達の目とかありますし。行事もこなしてくれて、スムーズでしたよ。昔のお母様は何も言わず、任せてくれていて、先生という感じで見ていてくれました。私は若かったのに立ててくれていて、良いお母様方でした。
今は少子化で、私もそうかもしれませんが手を掛け過ぎているのかもしれません。細かい所まで気が付きすぎて手を出しちゃうと言うか。
何かで見ましたが、“指示待ち世代”と言われていて、誰かの指示を待たないと動けない。
先にお母さんが“歯磨きしたの?”“うがいしたの?”“これ着なさい”“あれ着なさい”って言っちゃうから。それを思うと昔の子供は大人っぽかったのかもしれませんね。

 

今でも年賀状をもらってやり取りをしている生徒が4人位います。自分の幼稚園の先生にも未だに出していますよ。昔、赤ちゃんが生まれた時に自宅に遊びに来てくれた生徒もいました。幼稚園の先生は一番忘れられちゃうと思うんですよ、子供にとっては。記憶がどんどん薄れちゃうから。中学・高校の先生の方が覚えていると思うし。でも、思い出の品が一杯残っているから思い出してくれるかな?と思ったり。
担任の先生方とたまにご飯を食べたりしています。旅行とかも行ってますよ。

 

すっかり園舎も変わってしまい、職員の数が全然違いますし、(当時の)副園長先生も園長先生になっていますし、随分昔と全然違うなぁと思いますけど、園長先生の本当に子供の事、成長を考えているスタンスは変わらないのでずっと尊敬しています。
中野先生とも話していましたが、この間の3月で卒業した青い鳥の生徒が何人か育みに入らなかったのですが、どうしてその子達が育みに入らなかったんだとすごく怒られました。それを主人に言いましたが「それはすごいね。みんなを何とかしてあげたいという気持ちがあって、育みに入って見てあげたかった訳だから」と。
そして園長先生は昔から優しいんですよ。昔、私が出戻った時に年少の女の子が体育で怪我をしたんですね。病院に連れて行ったら「手術だ」と言われた事があって…。3歳の女の子なのに。その時に園長先生が心の底からお母様に「申し訳ございませんでした」と頭を下げている姿を見て良い先生だなと思いました。職員に対して思いやって下さっているなと思います。それに私も期待に添える様に頑張っていきたいなと思います。

 

自分の子供には毎晩読み聞かせていました。子供が違う幼稚園に入ったので、いずみとの違いに驚きました。そこの幼稚園はお餅つきは年長しかつけないんです。年中さんは白いハンカチを叩いていてびっくりしました。年少は見るだけで。
私の周りのママ友達には幼稚園の先生とか多かったので、お友達同士でクリスマス会とか開いていましたよ。今は子育てが一段落して幼稚園の仕事に戻っていたり。
高3の娘は眼科のお仕事関係につこうとしています。息子は高1。自分は努力家のつもりなので背中を見て育って欲しいですね。子供を育ててきて、先生の影響力は大きいなと思います。

 

「極める」という事。
自分に自信が持てない時があります。だからこそ一生懸命やってきました。これからも反省しながら頑張ります。園長先生に肩を叩かれるまで続けます。

 

話を聞いて、この園は変わらないんだなという事がよくわかる。飯田先生の時は、18人来て2人採用しましたが、一生懸命でそういう時代で頑張る人は実は貴重なんです。飯田先生はしっかりしていましたね。一生懸命さがありました。暗記して面接に来る位ですから。5年しかいなかったが、トラバーユ(転職)しちゃったのはバブルの影響だからしょうがないよね、若い時はね。
その時からMSと漢字はやっていて、今の幼稚園と子供に対しての教育提供は基本的に何も変わってないんだよ。変わらないというのは、MSと漢字をやっていれば変わらない。

“こういう子供に育てたい”というのが明確にあるのだから“こういう子供を育てましょう”という事になる。
先入観ってとても怖くて、幼児教育って教育界の中で一番評価が低い。小学校の先生に聞けば幼稚園の先生より小学校の先生の方が上だと思っているし、中学の先生に聞けば中学の先生の方が上だと思っている。高校・大学、それぞれ上だと思う。そういう感覚が生徒にも親にもある。それぞれ学校で学んだ事は大事にしなければと思うからね。幼稚園の教育っていうのは、明確な教科内容で良し悪しをきちんと検討するなんて機会がまず無い。MSとか漢字教育というのは、子供を如何にして育てるかという具体的な方策。この事について良し悪しで言えば「良い」という評価を得ているのに、学校ではそういう幼児教育を一切学んでいない。それは先入観があるから。うちの職員を見てても、どうしても最初はチャンネルを切り替えるがごとくやらないとうまくいかないんだよね。
昔の先生は、結構努力して先生になっているし。見て、こういう教育が良いと思って感覚的に来るから、入職もする。だから普通に出来るんだよ。多少の研修も繰り返しながら。仕事だと思うからかな?

飯田先生は指導はしっかりやっていたよ。歌も好きだし、ピアノも好きだしね。特に印象に残る生徒がいないと言っていたけれど、みんな印象に残る事ばかりだと思うのよ。アルバムに写真が沢山あるしね。結局そういう教育やっていると、万遍なくしっかりした子供に育っていくから。印象に残るっていうのは、見方変えると遅れている子とか、大事しでかしたとか、問題のある保護者の家庭の子とか。アクシデント系じゃないと出てこない。ある面じゃ、順調な仕事ができたんだと思うよ。「そうしましょう」というのが基本にあるのだから。
MSも漢字も基本は大人が良いと思う事を子供に体験させてあげましょう。という考え。
良いものは良いんだというのが一番大事。これがあるのと無い教育では天と地ほどの差が出てくる。ハンカチのお餅は有り得ないな。見学するだけでも違う。お米を見せる、蒸した物を見せる、潰している所を見る、おもちになった所を見る。それを頂く。それはそれで科学的であり本当なんだな。というところ。子供はこんなもんだという風な業界なんですよ。殆どが子供騙しね。本質つかんで評価すると全然違う。子供に対して“違いが大事なんだな”とわかってやる先生とわかって無くやるのとでは伝わる物が絶対違う。

当時は何に対しても良くやっていて、活気があった。私の運営サービスのモットーです。学年内で差が無いのは、人の事を見て、私も頑張ろうと思っているから。先生もメリハリある生活をしていたと思う。楽しかったよね。基本的には今も昔も変わらない。大事だなってわかったら子供にはさせる事。子供なりに成果が出れば、親は喜ぶから。
教師のレベルは時代と共に下がっている。人間は皆、時代の影響を受けて大人になるのだから。時代の影響というのは、学校教育の事。学校教育は全て。昭和20年代の親は団塊の世代。人を信頼したり、自分で努力しなさいという世代。あまり言わなかったというのはそこ。言ったら恥ずかしいと思っていた。

今の保育園の先生は「“です・ます”をつけて園児と会話をしない」と保育園の園長先生が言っていた。先生が園児に「ごはんだよ」「外で遊んできな」という会話。だから子ども達も小学校に入るまで“です・ます”を聞かないで育つ。言葉ほど感覚的に人間関係から何でも全て物事を取り入れる。言葉使いや態度が変わっただけで「この人偉い人だな」とわかる。
だから小学校に入ったら校長先生に「おはようございます」と言える。「おはよう」を言っていたら、「おはよう」しかわからない。
まじめな先生ほど教育はおかしい。子供が小6の時に「子供らしくない」と言われた事をよく覚えている。小学校の真面目な先生ほど、『他の子と一緒に過ごせる事が大事だ』『言葉使いから何から何まで合わせてやりなさい』という事をやって、それが『良い子供だ』と思わせている。学校の先生ほど影響を与える人材は子供の時にはいない。だから、幼稚園の時ぐらいはしっかりやってあげようと思う。

最近の幼児教育は、色々わかってきて科学的にも証明もされている。昔は、言っても“成果はどうなのか。”とああでもない、こうでもないと何クセを言ってきた。今の時代は“○○なるから△△すると良いですよ”と言える。というのは、「三つ子の魂百まで」というのがわかった。
幼児体験は脳から消えない。年を取るとわかるが、食べ物から匂い、聞いたものは全部消えない。MSと漢字で本当に成果がでている。でも良い成果に対して保護者は幼稚園の成果にせず、自分の遺伝子や努力の成果にしている。幼稚園の先生が一番偉い。
長くお付き合いをしている先生と昔の事を話していると本当に自分自身の反省もあるし、幼児教育は大切だと思う。そしてまだまだだなとわかってくる所もある。年配の先生は、年数を重ねた分だけ色々な事が分かる。後輩や親に伝えられる立場にある。これからも益々良い意味での向上心、プライドを持ってやって欲しい。期待しています。

~卒業生の皆さんへ~
お元気ですか?きっと街ですれ違っても気付かない位、立派に成長された事と思います。
お仕事頑張っていますか?有意義な毎日を過ごしていますか?たまには幼稚園の頃の事を思い出したりしていますか?いつまでも皆さんが元気で御活躍される事を祈っています。

~園長先生へ~
園長先生は昔からいつも子ども達の幸せと成長を願っておられ、15年振りにいずみ幼稚園に戻りましたがその信念は変わっていませんでした。
私達職員には、出来た時には心から褒めて下さり、失敗した時は「これが間違い!」「ここを直すべき!」と的確なアドバイスをして頂いたお蔭で、子ども達と共に成長出来たのだと思います。そんな園長先生の事を旧職員は今でも尊敬しています。
私がいずみ幼稚園で働いていると知ると「羨ましい!私も働きたい」と何人かの先生に言われました。
上司としても人としても尊敬できる園長先生の下で仕事ができて本当に幸せです。これからも今までお世話になった感謝の気持ちを持ち続けながら、青い鳥クラブの仕事を頑張って行きたいと思います。
そして、何十年か後に旧職員と園長先生と眞利子先生と皆で温泉一泊旅行に行くのが私の夢です。(笑)

課外教室がある日は、いつもニコニコしながら職員室にいらっしゃって、職員の皆さんと笑顔で挨拶しながらも、とても腰が低い飯田先生。インタビュー前は「もう~、緊張しちゃう。どうしよう」とソワソワしていましたが、お話の間、目をキラキラと輝かせながら「楽しかったのよ~」「本当に楽しかった!」と何度も繰り返しおっしゃっていたのがとても印象的でした。子どもの成長を見るのが本当に楽しい様で、お遊戯会、コンサート等の発表会の時は必ず会場に足を運んで下さっています。そして昨年行われました同窓会にもご出席して下さいました。『極める』という事、努力家の飯田先生らしい目標だなと思います。青い鳥の講師として、また先生の先輩として益々の御活躍をお祈り申し上げます。

(まとめ 井上美景)
 

【プロフィール】
葛飾区青戸生まれ
駒沢女子短期大学卒
昭和60年~平成元年、平成5~6年 の5年間勤務
平成22年~現在、課外教室『青い鳥』講師
結婚後、夫、長女、長男の4人家族

 
 
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